<特集> 「まだ名前がない森のしごとをつくる人」 vol.2 大武圭介さん(1期生)

梶原岐阜県知事(当時)と学生との対談の様子
仕事もあそびも自分でつくれる。
それを学んだのが森林文化アカデミーでした。
大武圭介さん(1期生)
特集・卒業生ロングインタビュー「まだ名前がない森のしごとをつくる学校」。第2回目は、そんな不思議な学校の誕生と、学生を惹きつける学びについて、現在のアカデミーの基礎をつくった伝説の卒業生 ー 第1期生から探っていきます。

第1期生の大武圭介(おおたけ・けいすけ)さん
40年以上の歴史を持ち、日本の環境教育の草分け的な存在でもある、NPO法人ホールアース自然学校。キャンプ事業や公共施設の管理・運営のほか、自然体験活動に関する様々なプログラムの企画・実施をしています。その事業規模は3億4千万円超、スタッフは40人を越えます。
日本でも屈指の大規模な自然学校で、副代表理事を務めるのが大武圭介(おおたけ・けいすけ)さんです。法人の経営を中核で支えながら、「富士市立少年自然の家」の運営をはじめ、行政や企業と共に様々な事業を手がけています。
「人と自然をつなぐことをしています。それだけではなく、人と人、人と社会をつないだり、新しい関係をつくったり。学びの場をつくることが仕事だと思っています」
そんな大武さんは、森林文化アカデミーの第1期生。2001年、当時20代だった大武さんは、まだ海のものとも山のものとも分からない、新しくできた学校に飛び込みました。
開学当時のアカデミーは、現在の編成と違い、「里山」「人工林」「山村活性化」「木造建築」「ものづくり」の5分野でした。大武さんは「山村活性化」に所属。2年次には「地域システム研究会」と分かれますが、その中で「山村振興計画」の作成を学び、自身の課題研究としました。
アカデミーの学びと今の大武さんのしごとは、一見繋がっていないように見えます。しかし大武さんは、変化していく時代と、それに合わせて常に自分らしい働き方・生き方をみつけ続けた結果、今の自分があるといいます。
「仕事について、遊ぶように働くとか、働いているのが遊んでいるみたいとか言われます。そもそも仕事とは何か、遊びとは何か ー 僕自身は、やりたいことをどうやったらできるのか、という事をずっと考えているだけな気がします」
仕事と遊びの別がない、一体となった生き方。ホールアースは、仕事の中で自己実現をしたい、という人が集まるそうです。
仕事以外でも、大武さんは沼津市の社会教育委員会の委員を務めたり、「日本自然保育学会」の学会活動に関わるなど、幅広く活動されています。
「自分の仕事とか学びとか、そういうものは自分自身でつくっていい。それを学んだのがアカデミーでした」
自分らしい生き方を実現する、そんな大武さんの原点をたどっていくと、環境問題に目覚め、そして大学での研究を経て湧き上がってきた「実地」そして「実践」という学びの本質とその大切さがありました。

ホールアース自然学校での活動の様子。富士市立少年自然の家での「森のようちえん」
世界の環境問題から日本の山村の問題へ
子どもの頃から、医療をテーマにした手塚治虫の漫画『ブラック・ジャック』が好きだった大武さん。医師である叔父から「医者に向いているんじゃないか」と言われ、一時は医学部への進学を考えたこともありました。
ぼんやり医師への道を考えながら『ブラック・ジャック』を読んでいた高校生の頃、漫画の中のある言葉に出会います。アフリカで環境保護活動に取り組んでいた登場人物が、ブラック・ジャックに宛てた最後の手紙に残した言葉でした。
『君は医者になったって聞いたけど、僕は地球を治す医者なんだよ』
その言葉に衝撃を受けたという大武さん。「地球を治す医者も格好いいな」と思った大武さんは、生態系や森林のことを学びたいと、大学進学を決めます。
大武さんが大学へ進学した頃、世界ではブラジル・リオデジャネイロで 「地球サミット」(国連環境開発会議、1992)が開かれ、環境問題への関心が急速に高まっていました。
しかし当時の大学では、理学部の生物系の分野か、農学部の森林分野しか選択肢がなかったそうです。農学部を選択し、入学した大学1年生の授業で、牛の解体処理所を見学に行き、初めてスーパーに並ぶ肉のつくられ方を知りました。
実学の大切さを強烈に学び、夏休みには米農家に泊まり込みでインターンに行ったり、冬には白菜農家に行って収穫の手伝いをしたりしたそうです。
さらに大学で、熊崎実(くまざき・みのる)先生に出会います。熊崎先生は、後々アカデミーの初代学長に就任する方でした。当時、熱帯林の保護に関する研究をされていた熊崎先生の紹介で、大武さんはタイでJICAの活動現場を見学に行来ました。タイを訪れ、大武さんの中に新たな気付きが生まれます。
「タイの人はいろいろな意味で日本のことを知っているのに、僕は日本のことをほとんど知らないということに気付かされました。日本の農山村ではどんな問題が起こっているのかという、問題意識が出てきました」
大学卒業を迎え、山村活性をテーマに研究したいと、研究テーマも指導教官も選べる大学院への進学を決意。熊崎先生に師事します。
修士取得までの2年間、やりたいことをやろうと選んだ研究テーマは「木工クラフトによる山村振興の可能性」。東北や北海道に出向き、林業的には価値が低い材を地域の特産物にする取り組みや、移住施策で木工の職人を育てる事業を調査します。
「今につながっているかもしれませんが、地域の課題解決のためには、1対1ではなく、合わせ技が必要だということ、そして、根本的には人の問題だということに気付きました」

大学時代に初めて海外旅行で訪れたタイにて
直感で人生を選択「初めての学校って面白そう!」
学生として参加したプロジェクトのつながりで、大学院修了後は、高山市のオークヴィレッジの関連会社(当時)「オークヒルズ」に就職します。小さな会社だったので、宿泊やレストラン、自然学校など、全てのことをこなしたそうです。

初めての社会人として、何でもこなしていていたオークヒルズ時代
自分で考え、実践する仕事は裁量が大きく面白く、良いメンバーにも恵まれていました。そうして三年目を迎える頃、アカデミー開学の知らせが大武さんに入ります。
「まだ校舎は完成していなくて、説明会は美濃市にある県の中濃庁舎でした。恩師の熊崎先生も会場にいらして、『ぜひ入学願書を出してください』と言われたことを覚えています。そのとき、パンフレットにあった「地方自治型自由学校」というキーワードが、非常に刺さりました」
まだ見ぬ学校に思いを馳せる中、今ある職場を離れること、社会人を一度休むこと、その後の人生設計など、様々な葛藤があったのは想像に難くありません
「自分の次なる成長のためにはもっと環境教育をちゃんと学びたい」「まだ20代なので2年間なら学び直しにはいいタイミング」と、自分の背中を押すいろいろな理由が浮かびます。そして何より「初めての学校って面白そう!」という”直感”に従い仕事を辞め、入学を決意しました。

2000年に発行された最初の学校案内
自分たちの学びは、自分たちでつくる
2001年4月、大武さんは森林文化アカデミーに入学します。真新しい校舎に第1期生を迎えたアカデミーは、その歴史を刻み始めます。
学校はそこに集う人々によって形づくられます。熱意ある新しい教員、そして未知の学校に社会人を休んで飛び込む決意をした「クリエーター科」の1期生。当初の想定と違い、30代から50代、さらに教員を辞めて来た人など、多種多様な人が集まりました。
開学当時は現在の4専攻と違い、「里山」「人工林」「山村活性化」「木造建築」「ものづくり」の5分野に設定されていました。大武さんは「山村活性化」に所属しましたが、分野横断型のプロジェクトも多かったそうです。
「先生がフィールドにしていた長野に行って、建築や木工を学ぶ学生も一緒にチェーンソーを持ち、80年生のカラマツを伐りに行くこともありました。また、今でも続く自力建築では、建築経験のない学生が、自力建設の提案に手を挙げたりしていました。今にして思えば、かなり無茶苦茶なチャレンジもしていましたね」

伊那(長野県)で行ったアカデミーの間伐実習
前身となる30年続いた林業短期大学校からアカデミーへと変わりましたが、最初は運営側は「学校であることには変わりない」と、従来の一般的な教育スタイルを踏襲していた部分もあったそうです。しかし、大学院まで進んだ大武さんをはじめ、「自分たちが本当に学びたいもの」を求めて入学した多様なキャリアの1期生たちは、学校運営側に新しい教育の価値観を求めていきます。
大武さんは中でも、これまでの大学、大学院での学び、そして社会人の経験で確信した、現地でのフィールドワークの大切さを学校側に訴えました。
<本質的な学びは教室で行われる「授業」ではなく、現地に赴き、自ら実践することである。それが可能となるカリキュラム編成をしてほしい>
大武さん達1期生と学校側の対話、そして試行錯誤により、現在も続くアカデミーの学びで最も大切にしている「現地現物主義」の礎がつくられていきました。

木曽(長野県)でのフィールド調査の様子
学生が学校の「文化」をつくる実践的な学び
学びをつくると同時に、学生生活も1期生がつくっていきます。ある時、教員からこんなことを言われました。「君ら一期生が学園祭をやらなかったら、来年からもできないぞ」。
それを聞いた学生たちは心が動きます。「やりたいね」という話にはなりますが、学生生活は夏休みになり、始動はしませんでした。9月になり、大武さんたちの中に、モヤモヤが再び湧き上がります。
「自分たちがやらなかったから、来年入ってくる後輩ができないと言われるのは、ちょっと悔しいというか、違うぞ、と思ったんです」

初めての学園祭をつくる ー 「翔楓祭」準備の様子
本格的に学園祭をやろうとなったのは、9月の中旬でした。無名の学校なので集客が課題になります。11月に「美濃市産業祭」が近くで開催されるので、それに合わせて開催すれば人が集まるのではないかとなり、開催日が決定しました。
しかし、開催まで1ヶ月半。準備に係る学生数も、一期生なので現在の半分の40人しかいません。さらに、資金もありません。
資金は教員にカンパを募り、アカデミーを応援する地域の人たちにも協賛を依頼しました。また、産業祭との連携など、美濃市への協力依頼も行いました。

翔楓祭の準備で皆で竹を伐採
学園祭の名称は「翔楓祭(しょうふうさい)」に決定。出展は、学生それぞれが自分の得意なことを持ち寄りました。造形が得意な人は、木や竹で看板づくりを。製材の実演や火起こし体験など、アカデミーらしい企画も。また、渓流釣りが得意な人は魚を釣って提供したそうです。
そして迎えた2001年11月10日と11日、初めての翔楓祭には、約500人もの人が訪れました。このとき1期生が起こした「自らやる」という文化が、今も学生に引き継がれています。翔楓祭は今でも、企画から資金調達、そして運営まで、学生自身が行っている「学生による学生のための学園祭」なのです。

オープニングイベントの「丸太カット」は今も受け継がれる
「今にして思えば、人を巻き込んで何かプロジェクトを進めていく実地体験が、あそこでできた気がしますね」
プロジェクトを立てること、それを動かすことで得られる学び ー それはまさに、誰かに与えられた授業ではなく、実践を通して自ら学ぶ「PBL(Project Based Learning)」そのものでした。

「この時の達成感は今でも忘れない」ー 第1回 翔楓祭での集合写真
アカデミーで学んだことー「学びは自分でつくっていい」
忙しい学生生活と並行して、自身の課題研究も進めていきます。
大武さんは、母方の縁がある木曽地域で、将来は活動したいと思い入学しました。大学時代にも当地は研究をしましたが、アカデミーでの研究では現地により深く入り、具体的な山村活性化計画を作成することを研究のテーマとしました。
研究では、木曽の地域に入り、地域資源の調査をするためのアンケートや住民とのワークショップを開催します。現地での人々との交流を通して、地域に埋もれていた技術や人を発掘し、光をあてていきます。実践も交えた様々なリサーチから、戦略プロジェクトを策定しました。その過程でスキルだけではなく、地域づくりの本質を学んだと大武さんは言います。
「指導教員だった前田先生(当時)から繰り返し言われたのは、「計画書に魂を入れろ」ということでした。物事の本質を掴まえる、つまり ”根っこ”を捉えないと、小手先の対応策では地域は変えられないと。この学びは、今でも自分の中に残っています」
アカデミーでの学びは、大学、大学院のそれとは違いがあったといいます。
「大学や大学院での学びは、自分主体というか、自分の学びで完結していました。でもアカデミーでは、同級生や先生、地域の人と一緒に学ぶ。その人たち自身にも何か気づきが起こっていました。そこがこれまでの学びと違ったのではないかと思います」
アカデミーでの学びとは何だったのか。25年近く経った今、大武さんはこう振り返ります。
「自分の仕事や学びは、自分でつくっていい。アカデミーはそれを教えてくれた場所だったのかなと思います」

課題研究の一コマ。木曽での住民向けワークショップの開催(2002)
人生は、選択の連続
卒業後、現在勤めているNPO法人ホールアース自然学校へ就職した大武さん。法人のパンフレットにあった「私たちは、シンクタンク(think tank:研究機関)ではなく、ドゥタンク(Do tank:行動実践を伴う)を目指します」というフレーズに惹かれました。
「数年経験を積んでから木曽へ行こう」、そう思って入ったホールアース自然学校で、気づけば23年以上が過ぎました。その中で、社会の状況は大きく変わっていきます。
手がける業務も、自然体験、教育旅行、企業のCSR、地域再生、青少年教育施設の運営、社会教育など、扱う領域も広がっていきました。社会の課題が変わるたびに、自然学校に求められる役割も変わり、大武さん自身も学び続け、仕事をリデザインし続けています。
大学の選択から、アカデミーでの学び直し、そして今につながる様々なできごと ー これまで歩んできた人生をあらためてふりかえり、こう語りました。
「運やチャンス、機会って、案外誰にも平等にあるような気がしています。それを選ぶか選ばないかを決めているのは、自分じゃないかな、と」
そして、
「結局、人生って全部、選択の連続だと思うんです。その選択の結果が今につながっているし、多分この先も選択し続ける、そういう人生なんだと思います」
2001年、まだ何なのかも分からない、新しい大人の学校ができました。そこに直感に従い飛び込むことを「選択」したことが、今の大武さんに繋がっています。自分らしい生き方を、これからも選択していく ー そんな力強い生き方を、大武さんの言葉から感じました。

自然学校セミナーの講師として中国に招かれる(2025)
「変人」が「変態」する「変な学校」が必要
アカデミーの敷地内にある森林許育総合センター「morinos(モリノス)」が、2020年にオープン。ホールアース自然学校は準備から立ち上げに関わり、開設後は5年間にわたり運営を受託してきました。
長い間、近くから今のアカデミーの姿を見ていた大武さんに、あらためてアカデミーへのメッセージを尋ねたところ、「これかな・・・」と引っ張り出してきたのは、自身の卒業式で述べた答辞の文面でした。そこには
「変化を恐れず、ユニークな学校であり続けてください」
という言葉が書かれていました。
「今見直しても、これに尽きるかなと思います。『アカデミーってこういう学校だよね』って定義づけてしまったら、それはもう、アカデミーじゃないんじゃないかと」
「ユニーク」とは、単に「変わっている」という意味ではないと大武さんは言います。ユニーク(unique)とは唯一無二であること。そして、唯一無二であり続けるためには、変わり続けなければならないことだ、と大武さんは言います。
「<変人>と<変態>というのがキーワードだと思うんです」
変態は、生物学では「metamorphosis(ドイツ語でメタモルフォーゼ)」です。例えば蝶は幼虫からサナギになり、羽化して成虫へと大きく姿を変えます。生物に必要な大きな変化が「変態」であるとき、人が大きく人生のステージを変えようとするための「メタモルフォーゼ」を起こすことができる、特別な環境が必要になります。
「芋虫がサナギになって蝶になるみたいな。おそらく、アカデミーでの2年間がサナギの期間なんですよ。今までの経験を捨てるんじゃなくて、全部一回ごちゃまぜにして、組み直してみる。そうしたら<蝶>ができるかもしれない、という」
アカデミー、特にクリエーター科に入る人は、安定した仕事を辞め、確立した役職を捨て、家族に心配されながら入学するといった、現代の通例で理解されにくい道をあえて選択する「ユニークな人 = 変人」だと、自身を含めて大武さんは言います。(40歳でアカデミーに入学した私も「変人」の一人でした!)
入学者は、それまで持っていたものをアカデミーで混ぜ直し、もがきます。そうした中で自分の新しい姿を見つけ、それまでとは別の姿で社会へ出ていきます。
「変人が、変態する学校 ー アカデミーを超える”変な学校”は、そんなにないと思います。でも、そこに甘んじてはいけない。ユニークな・・・変な学校であり続けてください」

新たな学校に集まった第1期生と、ユニークな学生たちに向き合った初代学長の熊崎実氏(中央)と教員の面々
最後に、そんなアカデミーの中で、森林環境教育専攻はどんな人にお勧めしますか?と大武さんに聞きました。
「好奇心旺盛な人とか、今の社会や自分のライフスタイルに違和感がある人。その違和感は何なのかを突き詰めて、自分の問いを見つけたい人にはいいんじゃないかなと思います。一方で、「このスキルが学べます」「この仕事に転職できます」ということだけを求めるなら、少なくとも森林環境教育専攻は違うと思います」
大武さんも、学びたいことがあり、森林環境教育専攻の前身である「山村活性化」のコースに入りました。入学時に期待していたことと実際に学んだことは違ったが、アカデミーでの学びを通して得たものは、結局今も息づいているとのことでした。
だから・・・と、アカデミーとアカデミーに入る人に向けて、こんなメッセージを投げかけました。
「向き合う課題は、時代によってどんどん変わっていきました。既存の職業に人を送り出すだけじゃなく、今はまだ顕在化していない<名前のない仕事>を学生と一緒につくっていく、そんな余白があってほしいです」
25年前、まだ完成していなかった「変な学校」に飛び込んだ一期生。その卒業生が今、次の25年に向けて、もう一度学校に問いかけています。
「変化を恐れず、ユニークな学校であり続けられるか」
未来をつくろうとする情熱ある人々が入りたいと思える「変な学校」。大武さんたち1期生から代々渡されてきたそのバトンを私たちはどのように昇華していくことができるのか、今それが問われていると感じました。
環境にまつわる課題が山積する中、「まだ名前のない森のしごとをつくる人」が求められています。未知にチャレンジしようとする人々を支え、共に学ぶ学校になるため、アカデミーも「変態(メタモルフォーゼ)」し続けないといけない、あらためてそう考えさせられた大武さんからのメッセージでした。
<2026年9月作成>
写真提供:大武圭介さん
文責: 森林環境教育専攻 教員 小林謙一(こばけん)
