【アニュアルレポート2025】「時計回りのクロッキー」 他者の内部モデルとの対話による「観察力」の深化
「時計回りのクロッキー」
他者の内部モデルとの対話による「観察力」の深化
准教授 松井 匠
目的
■ なぜ「他者の目」が必要なのか
昨年度の報告(2024年度)では、建築実務者が「良いものの良さ」を見逃し、景観を損なう建物をつくってしまう原因を、脳の認知科学的プロセスである「知覚的推論」の弱さと「予測誤差の最小化」の機能不全から考察し、学生を対象にクロッキーとデッサンによってその強度を上げることを実践した。
私たちの脳は、現実をありのままに見ているのではなく、過去の経験に基づいた「内部モデル(生成モデル)」を用いて外界を推論し、認知を形成している。しかし、設計者が自身の乏しい内部モデルに固執し、「能動的推論」(自分の予測に合うように世界を解釈・操作するプロセス)を暴走させると、例えばその町が持つ固有のデザインコードや、古民家が持つ繊細な美しさという「感覚信号」を無視し、画一的で醜い成果物を生み出してしまう。
本研究は開始して9年になるクロッキー教室の実践を、岩波書店「脳の大統一理論―自由エネルギー原理とはなにか」(著:乾敏郎、阪口豊)で解説されている神経科学者カール・フリストン(1959-)の理論を元に考察し、建築実務者の観察力、審美眼の底上げへ寄与することを目的とした研究である。
2025年度の研究では、この「自己の内部モデルの閉鎖性」を打破するため、クロッキー教室のメソッドに「他者の視点の物理的な介入」を取り入れ、観察力がどのように変容するかを検証した。
概要
■ 実践メソッド「時計回りのクロッキー」
従来のクロッキー教室(毎朝10分、モデルを描く実習)に、以下の新しいプロセスを追加した。
1.第1ポーズの制作: 通常通り、5分間で1枚目のクロッキーを描く。
2.時計回りの席移動: 描き終えたら、学生は隣の席へ移動する。そこには、他者が描いたばかりの1枚目の絵が(視界を邪魔しない位置に)貼られている。
3.第2ポーズの制作: 学生は「他者の絵を見た直後」に、「他者と全く同じ角度」から、同じモデルの次のポーズを描く。
このメソッドの肝は、他者の描線や構図という「他者の推論の結果」を予備知識(事前確率)として入力した状態で、自らの能動的推論を働かせる点にある。

写真1 「クロッキー教室」講評時間の様子
■ 言語化によるメタ認知の向上
本年度の大きな成果は、事後の講評時間における学生の変容である。完成した絵を並べて展示し、プロセスを言語化させると、以下のような比較発言が大幅に増加した。尚、展示は自分の絵と、同じ角度で描かれた他者の絵が並べている。(左が1回目、右が2回目)
- 「他者の構図を真似してみたが、自分よりも空間を上手に構成していると感じた」
- 「隣の人は全体を紙に入れていたが、自分はあえて違う箇所に注目し、アップの構図で描いた」
- 「隣の人は、形よりも陰影を見ているのだなと発見があった」
- 「同じ構図なのにわたしの絵よりもモデルの重心がわかる」
講評では、他者の絵について相互にコメントしてもらったが、より比較して講評していることがわかった。
絵という非言語の表現を、不完全ながらも言語化(トップダウン処理の強化)しようとすると、どうしても深い観察が必要となる。また、自分の絵と他者の絵を比較し、その差分を言葉にする作業は、自らの知覚プロセスそのものを客観視する「メタ認知」を促進させる。
認知科学的には、これは「自分の推論」と「他者の推論」の精度(信頼度)を比較評価する作業である。他者の成果物を正しく認知し、自分の未熟な予測(信念)を更新できるようになることは、風景や既存建築物の良さを見落さない一助になるはずだ。
■ 認知科学的考察:内部モデルの共有と能動的推論
① 他者の内部モデルの「サンプリング」
知覚的推論において、脳は網膜像(2D)から外界の状態(3D)を推測する。隣の席に移動し他者の絵を見る行為は、他者の脳が行った推論の結果(内部モデルの出力)を、新たな感覚信号として受け取ることであり、学生は自分一人では気づけなかった「線の省略の仕方」や「重心の捉え方」を、自身の内部モデルへ取り込む(サンプリングする)ことが可能になる。
② 能動的推論による「他者の視点」の追体験
他者の絵を見た直後に同じ場所から描くことは、脳内のミラーニューロン系を刺激する。他者の描写を自分の身体運動としてシミュレーションしながら描くことで、「なぜ他者はここを強調したのか」という意図を、自らの能動的推論を通じて「自己証明」するプロセスへと変化する。
■ 結論 観察力は「他者の世界」を理解する力
本研究の実践から、クロッキーで向上する能力は単に網膜情報の解像度を上げるだけではなく、「(メタ認知した自分を含めた)他者の成果物を正確に理解する能力」を獲得できることが示唆された。これは「自己の内部モデルの閉鎖性」を他者の存在によって開放する回路であり、建築実務者に実装できれば、自らの内部モデルは絶えず更新され、洗練されていく。また、言語化を通じた深い観察練は、他者の視点を内在化させ、自己の能動的推論を、良き世界の造形と接続するだろう。

写真2 同じ角度で描いた絵を並べるとその差がよくわかる。1回目(左)は服の黒さに注目し、2回目(右)は同じ構図で足元の影や顔の表情を捉えている
教員からのメッセージ
「よく見える目」を養うことは他責的な建築物を減らし、人々が愛着を持てる暮らしの風景をつくるはじめの一歩です。本研究は、松井の個人的な美の基準を推すのではなく、その前段階の「観察」について整理しているもので、すべての建築実務者に寄与することを目指しています。
活動期間
2017年~
連携団体
なし
関連授業・課題研究&関連研修
・クリエーターのための美術とデッサン(Cr)
・クロッキー教室プロジェクト(Cr)
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