アカデミー教員インタビュー

探求すること、それが仕事。

吉野 安里(木造建築専攻)

吉野先生インタビュー01

 

木材を研究して30年。今年定年を迎えた吉野先生は、おもしろいことを見つける達人でもあります。いろいろな仕事の現場で、そこにある「おもしろいこと」を探す。すると、仕事がもっとおもしろくなる!吉野先生の人生を紐解きながら、仕事への取り組み方をじっくり聞いてみました。

 

 

仕事で山に登りたい!

——吉野先生は、どんな子ども時代を過ごしましたか?

吉野:ぼくは、京都の比叡山のふもとで育ちました。家の近くはすぐ山で、遊び場と言ったら山なので、釣りに行ったり、クワガタ獲りに夢中になったりしました。子どもの数が多い時代で、教室も45人学級でした。だから先生の目が届かない。目が届かないっていうのはよかったですね。陰でこそこそ?できますから。そこで、給食の早食いだとか、けんかのイロハだとか、そういったことを学んでいきました。仲間もいっぱいいたし、大勢にもまれて、細かいことにまで大人たちの目が届かない。競争とおおらかさとが共存していた、そういう時代でした。

 

吉野先生インタビュー02

 

——木材や製材に関わることになったきっかけはなんですか?

吉野:高校生のときはワンダーフォーゲルをやっていました。山に行くことが好きだったんです。だから、仕事で山に登れたり、山と関われたり、自分の専門分野が野外だったらいいなってすごく漠然と考えていました。山に関係したことだったら、きこりでも、山小屋でも、木工やってもいいしって。それで、山に関わることができて、山に登れるので大学で林業を学ぶことにしました。山に行って遊ぶのは好きだったんですけど、学生のときにいちばん夢中になったのは、山の計画を立てることですね。ここの山は毎年どれくらい木が生長して、何年後にどんな山になっていくのかというシミュレーションをしていました。当時は、そういうシミュレーションがちょうどはじまったころで、今みたいなパソコンはなくて、もちろんスマホもない。部屋いっぱいの大きなコンピュータを使っていましたが、エクセルもなにもない時代ですから、自分で夜な夜なプログラムを書いていました。それはかなり夢中になってやりましたね。それで大学4年生になったとき、就職についてはあんまり考えていなかったんです。大学院でもっと学べばいいかなとも思っていました。でもまわりのみんなが公務員試験を受けるって聞いて、一応公務員試験を受けてみました。専門分野の試験では、非常に運がいいことに、統計の問題が出たんですよ。統計はプログラムで毎日書いていたので、ぼくのためにあるような問題でした。だから1年違ったら公務員になっていなかったと思います。運よく長野県庁の林務部に入ることになりました。入って最初の1年間は林道を作る仕事をやっていました。でも、ぼくは行政でデスクワークは向かないなというのが最初からわかっていました。外で調査をしたり、わからないことや未知のことがわかったりすることがおもしろかったので、林業試験場に行かせてくださいと手を挙げたんです。それで2年目から林業試験場に行くことになったんですけど、そのとき、「君、木材をやりなさい」と言われて、そこで木材を研究することになりました。

 

吉野先生インタビュー03

演習林から学生が伐ってきた木に座ってインタビュー

 

 

仕事の「おもしろい!」を見つける

――林業試験場では、どんなお仕事をされていたんですか?

吉野:当時は、平成になるちょっと前で、木を植えて育てるだけでは木材利用につながらないから、木材のことをもっともっと研究しようというのが全国的に広がった時代です。そこでなにからはじめたかと言うと、やっぱり木材利用の基本は、丸太から角材や板材に加工する製材ですね。それから水分をたくさん含んでいる木材を、製品にするための乾燥と、木材の強度です。当時の長野県は、スギ・ヒノキよりもカラマツがいちばん多くて、カラマツは天日でゆっくり天然乾燥させると、すごくねじれて、脂(やに)がたくさん出てくるので、住宅の木材としては使えなかった。だから、長野県は乾燥庫で温度や湿度を調整しながら乾燥させる、人工乾燥技術の開発にとても力を入れていました。今では、人工乾燥の普及が非常に進んでいると思います。板にした木材がちゃんと乾燥できるようになったら、今度はもっと発展させて、板材と板材を接着させて集成材(しゅうせいざい)を作るようになりました。集成材を作るなら、どういう樹種の組み合わせでどのくらいの強さになるかを調べるために、実際に作ったものを折って強度を調べるという実験を毎日毎日やっていました。これは非常におもしろかったです。もうひとつ僕にとって幸運だったのが、高温セット法ですね。今ではどこでも当たり前の技術ですけど、当時、木材の人工乾燥は、針葉樹でも100℃以上の高温で乾燥すると木材が割れてしまうのでタブーだと言われていたんです。ところがある日、先輩がやっていた実験が高温になっちゃったんですよ。偶然に近かったと思うんですが、それが驚異的に割れがすくないという結果だったんです。もう一回やってみたら、やっぱり同じでした。何回やっても同じなので、これはおもしろいということで、学会にも発表したんですけど、最初は相手にされませんでした。けれど、それをいろんなところでいろんな人がはじめるとその通りの結果になるわけです。今ではめっちゃくちゃ当たり前な技術になりましたが、その場に居合わせたのは、ぼくは非常に幸運だったと思っています。

 

吉野先生インタビュー04

 

吉野:あと、2000年に田中康夫って人が長野県知事になりまして、田中知事はある日突然とんでもないことを言う訳です。彼はコンクリートのダムはよくないからやめろ、と言いだして、木でダムを造ることになったんです。「木で造るのかよ!」ってダムを造っている人は心配でしょうがないですよね。それでも知事の命令だから、なるべく人家から遠いところで、そこが仮に壊れても被害が出ないところから木でダムを造り始めたんです。それで、木で造ったダムがどうなるのか、吉野調べろってことになりました。長野県内に120くらいダムがあったんですけど、調査に行きまして、木の腐り具合を見る訳です。腐るのが1年間に何ミリくらい進んでいくのかを調べていきました。あと、断面がどのくらい残っていればいいのか、まわりが腐っても芯がどのくらい残っていればダムとして機能するのかという計算もしました。そういうことをやると、おもしろいわけですよ。しかも外に行けるしね。今日もダムの調査ですって。その結果がまとまってきて、これはおもしろいぞってときに、知事が別の方へ交代して、田中康夫さんはいなくなっちゃいました。

 

吉野先生インタビュー05

アカデミーでの天然乾燥の様子

 

 

53歳、新しい山を登りはじめる。

——長野県からとなりの岐阜県にある森林文化アカデミーに来ることになったのは、どんな経緯があったんですか?

吉野:2011年、東日本大震災が起こった年なんですけど、ぼくは試験場にずっといられると思っていたら、突然「長野県林業大学校に行け」と言われたんです。それまでいろいろ研究していたものを継ぐ人もいなかったので、泣く泣く林業大学校に行きました。ぼくも震災にあったような気がしました。長野県林業大学校は全寮制で、それはそれでおもしろいんですけど、年季の相当入った寮でした。でも、若い人って汚くて、片付いていなくても平気ですね。楽しいしね。ただ、林業大学校は製材機もないし、演習林はかなり離れたところにあったので、そういう点でちょっとさみしいなと思っていました。実際に製材をして見せたら絶対おもしろいんだけどなって。試験場には25年間いたんですが、20年間くらいは非常勤講師で木材のことを教えていたので、教えることは割と得意でした。でも、非常勤講師をはじめた30年前は、学生さんは、なかなか教室での90分の授業についてこられないんですよ。だいたい集中しているのは10分か20分。そうすると話題を10分か20分で変えなきゃいけないし、関心をつなぎ止めるのは大変でした。なので手品をやったり、クイズを出したりしながら、90分間授業をやりましたね。でも、林業大学校に来てみると、時代も学生さんの気質も違う。士気は高いし、反応もいい。すぐに仲良くなりました。どうすればわかりやすい授業になるのかにハマりましたね。教員の仕事がおもしろくなってきたところで、3年でまた異動になりました。

 

吉野先生インタビュー06

 

吉野:それで、またぼくは試験場に戻れるかなと思ったんですけど、今度は鳥獣対策をやれと。シカの捕獲計画ですね。しかも鉄砲を持った人に、あそこにシカがいるから来てくださいって言っても、新参者の言うことなんか説得力がない。説得力をもつには、科学的な裏付けをもったデータとそれを見える化した地図が必要で、その仕事を先輩から引き継ぎました。調査の協力を得るには、やっぱり捕獲をする人たちと仲良くなって、信頼関係が築けないと無理なので、いろんな捕獲の現場に行ったり、冬は猟のところを一緒に見せてもらったり、今日鍋があるからって呼ばれたり、それはそれでおもしろかったんですけど、非常に忙しかったんです。ケガをしているタヌキがいるとか、クマが人里に現れたとか、夜中でも電話かかってくるんですよ。鳥インフルエンザが流行していて、弱った鳥がいるという連絡があると、休日でも受け取りに行き、検査の手配もしなければならない。それが非常に多くて、ちょっとこれはきびしいなと思ったんです。20歳くらいだったら飛び込んでいってやってみるのもおもしろいと思うんですけど、50歳過ぎていました。試験場に戻りたいと思っていても戻れるかわからない。先がだんだん読めなくなってきたなって思っていたんです。ちょうどその頃、アカデミーの木材や製材を教えている先生が定年でお辞めになるというはなしがあったんです。その先生が担当されていたことは、ほとんどやったことはあったので、仕事はできそうだなと思いました。でも、採用されるかどうかはもちろん自信はなかったです。53歳ですからね。運が良かったのかよくわからないですけど、アカデミーで木材や製材を教えることになりました。木材から4年離れていて、久しぶりに戻ってくると規格は変わるは、試験方法は変わるは、新しい木材加工技術はでてくるは、4年でかなり違うなと思いました。さらに、岐阜県のことも全然わからない。わからないけれど、まあ新しいところは新しいところでおもしろいし、ここで自分が出来ることはあるなということに気がついて、非常に有意義な時間を過ごすことができました。

 

吉野先生インタビュー07

アカデミーの木材の強度試験室の様子

 

——アカデミーのいいなって思うところはどんなところですか?

吉野:ある卒業生の言葉ですが、アカデミーのことを「もう一度学びなおしたい学校」と言っていたんです。もうすこし学べばよかったということもあると思うし、学ぶならやっぱりこの学校だってこともあるだろうし、非常に意味が深い言葉だと思いますね。若干付け加えるとすると、山から使うところまで全部揃っている。川上から川下のことがつながっていて、真剣に考えたり、試してみることができる。こんな学校は他にはないですね。演習林と製材機があるだけですごいです。

 

——将来、アカデミーに入学する人へのメッセージをお願いします。

吉野:好奇心を持ってほしいなと思いますね。アカデミーに入学する人は、当然森林とか林業とか山で暮らすとか、そういうことがキーワードで来ている人だと思うんですね。例えば林業の人は、木を植えて育てて伐るというのが一番メインのように思うけれど、製材したその後がどうなっているのかにも関心を持ってもらいたいと思うし、製材した木材を利用する人は逆に山側のことをよく知ってほしいと思います。今は、山側は素材を出してしまえばその後のことはよくわからないし、木材流通も素材として木材を買ってくれば山側がどうなっているのかはあまりわからないし、木材が製品としてどう使われているのかもわからない人が多いです。つながりがないので、バラバラな状態。でも、ひとつの大きな意味で林業と言えるので、そこが協調してやっていけるような仕組みが大事かなって。それが一番やりやすいのが、両方とつながりのある、木材流通の人だと思うんです。だから、山側や木造建築側ともつながりを作って、山側にも還元できるし、使う方も安心して使えるという、社会的使命というと大きな言い方かもしれないけれど、そういうことを目指してほしいですね。

 

吉野先生インタビュー08

木材はおもしろい!

 

吉野:木材はひとつの素材だけれど、コンクリートとは違って産地があるし、木材を介して人のつながりがあるし、お金のつながりももちろんあるんだけど、そういう材料って他にないので、これが木材のおもしろいところかなって思います。ぼくが一番すごいなと感じているのは、この木材が光合成で出来ているってことですね。人間はお世話をしている。一生懸命お世話をしないと良いものはできないんですけど、でも基本的には育てるのは太陽エネルギーなんです。あと、水と二酸化炭素が原料ですよね。その原料で木ができて、木を使って建物ができる。これはすごいなっていつも思いますね。

 

インタビュアー 纐纈俊一(森と木のエンジニア科)

 

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