アカデミー教員インタビュー

地域と生きる、地域が活きる。

嵯峨 創平(森林環境教育専攻)

 

今年度で、アカデミーの教員を退職される嵯峨先生は、全国各地の農山村で、長年まちづくりに関わってきました。そのルーツを紐ときながら、「森林文化アカデミーに、なんでまちづくり?どんな関係があるの?」そんな疑問にも答えてもらいました!

 

中学1年、ひとり旅デビュー!

——小さい頃は、どういう過ごし方をされていたんですか?

嵯峨:生まれたのは秋田県なんですけど、父親は転勤が多い仕事で、小学校時代は東京の郊外で暮らしていました。その頃は、身近な生き物を捕まえては、飼うことにはまっていましたね。団地暮らしだったんですけど、ベランダの端から端まで水槽やタライを並べて、カメやヘビやカエルを飼っていました。それから、中学校、高校が京都だったんですが、当然、東京とはしゃべる言葉も違うし、人の距離感も全然違う。だから関東と関西の違いには、最初すごく壁を感じて、どうやって入っていったらいいんだろうこの学校に…って思っていました。その頃は、ひとりで旅行するのが好きで、中学生になったら泊まりがけで旅行にでることを親が許可してくれたので、ユースホステルという安い宿の会員になりました。

——中学生で!?

嵯峨:そう。中1でユースホステルデビューをして、当時は少年パスって言うのがあってね。一泊二食付きで970円くらいだったんです。京都駅発の夜行列車に乗って、山陰地方を旅したり、友達とふたりで四国一周に出かけたり、そんなことをしていましたね。あとは両親のふるさとが秋田だったので、ひとりで東北大遠征をやりました。そのときは、岩手の宮沢賢治ゆかりの地に行って、そこからなぜか青森の恐山に行って、秋田に寄って帰って来ました。あわただしい、移動ばっかりの旅で、目的もはっきりしないんだけど、なんかね、がむしゃらに行きたくなったんですよね。ひとり旅はさみしくない?とかよく聞かれましたが、すごく自由な感じがして好きでした。

 

 

——どんなことがきっかけになって、進路を決めたんですか?

嵯峨:京都にいた頃に、町道場で柔道をやっていたんですが、そこで仲良くなった人が私と弟と同い年の在日コリアンの兄弟だったんです。すごく仲良くなって家にも遊びに行っていたんだけど、まわりの大人たちから「あの辺は危ないから遊びに行くな」って言われて、ちょっと理不尽な思いを抱いたんですね。関西に移り住んで、日本の中にも違う歴史を生きてきた人たちがいるんだなってことをはじめて意識して、漠然と社会問題みたいなことに興味を持ちました。それで、東京の私立大学の社会学部に入って、そこで、奥田道大(おくだみちひろ)という都市社会学の先生に出会ったんです。その先生が、関東と関西は都市の成り立ちが違う、都市の歴史の長さも違うし、町民の文化の成り立ちも違うという話をしていたんです。これが自分の体験と重なって、すごくわかる!ってなったんですよ。その都市文化論にはまってしまったことがきっかけで、その先生の研究室に入ることにしました。研究室は地域社会論、コミュニティ論を専門にしていたので、その流れでコミュニティとか町のことに興味をもったかんじですね。

——「まちづくり」と出会ったのも、大学ですか?

嵯峨:大学は東京の池袋にあったので、伝統的に池袋の調査をずっとしていたんです。池袋には、東京の三大長屋のひとつと言われていた「日ノ出町」があったんですけど、そこは、古い木造の集合住宅が密集して建っていて、車が入れないような細い道がたくさんある。当時は恐らく日本一人口が過密な町だったんです。防災上危ないので、東京都が再開発計画を進めていて、奥田研究室の学生が住民意向調査のアルバイトにかり出されたんです。その調査を通して、いろんな経緯のある人がいたり、町のルールがあったりすることを肌で感じて、おもしろいなと思いました。それと同時に、「都市計画」って仕事があることをはじめて知りました。都市計画は、町の道路の配置や建物の高さ制限を決めるなど、空間をデザインする仕事ですが、そこに歴史的背景や住民の意識が大きく関わってくる。要は「まちづくり」に近いんです。空間のデザインだけだと社会学とは接点がないんですが、住んでいる人の視点や町の特徴とかを考え始めると社会学も関わってくるんです。都市文化論がおもしろくて、軽い気持ちで研究室に入ったら、仕事の選択につながった。そんなかんじですね。

 

 

おもしろくて、むずかしい、まちづくり。

——大学卒業後は、具体的にどんなお仕事をされていたんですか?

嵯峨:卒業後は、都市計画系の民間の研究所に就職しました。当時は、日本国土の15%をリゾート地にしようという大規模なリゾート計画が作られて、リゾートマンション・スキー場・ゴルフ場といったレジャー施設が全国各地に乱立したんです。僕のいた研究所は、国がリゾート計画としてかかげた政策が、実際はどのように進んでいるのか調査をしたり、いろんな地域資源がどういうふうに出来上がってきたのかを基礎調査したりしていました。それで、たまたま大分県湯布院の基本計画を立てる担当になったんです。そのときはゴルフ場を作るために土地を買いあさっている業者がたくさん入ってきて、役場の窓口がてんてこまいになっているとか、マンションとかホテルとかが申請通りに建ったら、水道水の供給が間に合わなくなるとか、いろんな問題が起こっていたんです。当時はリゾートという巨大な産業を急速に起こそうとしていた時代なんですけど、ゆっくり出来上がってきた地域社会にとっては、速すぎるんじゃないかって議論が国内外で起こったんです。それで、「成長管理」という、地域のものさしにあった速度で成長の管理をしましょうという考え方ができて、湯布院はそっちを選択したんです。景観を守りながらじわじわと着実に成長していく方がいいんじゃないかって。今で言う「持続可能な開発」ですね。そういう理念でまちづくりの計画をつくる仕事をして、これはいよいよまちづくりおもしろいなと思いました。

——そこからどういうふうにアカデミーにたどりついたんですか?

嵯峨:湯布院の後に、福島県の奥会津に6年くらい通っていました。只見川(ただみがわ)という川の流域にある、かなり奥深い集落で、伝統的な文化や、いろんな技を持った人たちがたくさん残っている町でした。その町の大問題は人口減少だったり、仕事がないことだったりしたんですけど、どうやったら打開できるんだろうって、地元の若手チームと一緒に考えたのが、「奥会津案内人講座」でした。奥会津の伝統技術や自然と関わる暮らしぶりを、地元の人に話してもらったり、自然と関わる暮らしの体験を提供してもらったりするために、地元の人と旅行者の間に立ってつなげる人たちを養成しようという講座でした。4年くらい続けてやったんですけど、講座がきっかけで東京から移住する人がでてきたり、新しく仕事を起こした人が出てきたり、かたちになって続いていくっていうのはすごくやりがいがあるなあと思いましたね。ちょうどそのときに、アカデミーで山村づくり講座(当時)の教員公募があって、この仕事の延長をもっとどっぷりやってみたいなって思って、アカデミーにやってきました。

 

岐阜県揖斐川町旧春日村の茶畑。嵯峨先生の授業で訪れている。

 

——先生にとって、まちづくりでおもしろいなって思うところは、どんなところなんですか?

嵯峨:地域によってそれぞれ持っている地域資源はちがっていますが、すばらしい景観がある、歴史的な遺跡がある、他所にはない特産品やお祭りがあるなど、地域の特徴を表す要素は実際に歩いて調べてみないとわからない。そこがおもしろさのひとつですね。地域がちょっと活力を失っているとき、過去に学びながら、地域資源の新しい使い方や需要を考えていくことがまちくづくりの基本ですが、それを地元の人と一緒に考えていく過程が創造的でおもしろい。そして、結果が見えやすいんですよ。まちづくりは、小規模なコミュニティを対象にしていることが多くて、ひとつの地方自治体のこともあるし、ひとつの商店街のこともあるし、ひとつの集落のこともある。小さな町では人の動きだったり新しい事業が立ち上がったりすることが見えやすいんです。つまり、自分の立ち位置や仕事の手ごたえが実感しやすい。小さな地域社会で実験してうまくいったものは、他にも広がる可能性があるし、いろんな試みの結果が地域社会に反映されやすい。結果になって見えやすいところが僕としてはいちばんおもしろいなと思っているところですね。

——逆にここがむずかしいなって思うところはどんなところですか?

嵯峨:もちろん自分が考えていたようにはいかないこともたくさんあります。奥会津は、知り合いの役場の課長さんにちょっと手伝ってくれと言われたのがきっかけで通い始めたんですけど、人によって温度差があり、意見の違いもありました。農山村はいろんな情報が濃密に絡み合っていて、それだけに新しいことをやろうとか、ちょっとした失敗とか成功とかが全部尾ひれがついて広まってしまうので、どうしても気兼ねしてしまうところがあるんですよね。そこが今はまだマイナス面かなと思っています。あとは、森だとか農地だとかはそんなに簡単に貸したり売ったりができない法律があるので、人口にくらべてものすごい土地は広いし、自由に動ける空間もあるんだけど、それがそんなに気軽に使えないところもハードルだと思います。僕も何人かで古民家を購入してみたり、森にいろんな資源を採りに行ってみたり、いろいろチャレンジしてきましたが、やっぱりいろんなところにきちんと挨拶をして、関係を作っていかないと、拒絶されてしまう。農山村ならではのビジネスマナーというものがあるかもしれませんね。

 

旧春日村での授業の様子。

 

森林文化+持続可能=山村集落

——アカデミーのすごいところはどんなところですか?

嵯峨:林業系の専門学校の中で、エンジニア科、クリエーター科って二階建てになっているところはここだけですよね。木と森に関しては、実践的な挑戦とか、最新の調査データとかが、ここに集積していると言ってもいいと思うんです。おまけにめちゃくちゃ小さいじゃないですか。小さいのに教えていることの幅が広い。幅が広いわりに少人数で密な顔見知りの関係が普通に作れているので、林業・森林環境教育・木工・木造建築の専攻を超えたことができるってことも、すごい強みだと言ってもいいと思います。入ってくる学生さんの方も、アカデミーを全部使い倒してやろうとか、野心のためにこれとこれとこれを全部取ってやろうとか、そういうのもあっていいんじゃないかなと思います。

——森林文化アカデミーになんで「山村づくり・地域づくり」があるのか?っていうのは、一見分かりにくいところだと思うんですけど、どんなところで森林とつながっていると思いますか?

嵯峨:林業で収入を得て生活してきた「林業地」と呼ばれている山村集落は全国各地にあるんですけど、1000年続いた林業地ってとても少ないんだそうです。集落として林業経営を1000年単位で続けてきたところは、林業だけではなくて、例えばキノコとか山菜とか炭とか、あと特殊な染料や繊維とか、いろいろなものを少しずつ生産しながら都会に供給していたそうです。たくさんの小さな商いを組み合わせたり、もちろん農業もやったり、どうやら複合的な山村経営の方が、持続性があるんじゃないかという調査結果もあるんですよ。そういう意味でいくと、この学校で言っている「森林文化」がいちばん蓄積されて残っているのは、山村集落だと思うんです。山村集落の資源利用のあり方や、生活するためにどうやって小さな仕事を組み合わせてきたのかを学ぶことは、持続可能な森林経営のためにも必要だと思うんですね。

 

 

——嵯峨先生の思う、岐阜県内でここはぜひ行ってみてほしい!という地域はどこですか?

嵯峨:いま、日本中で山村集落がどんどん消えていっていると言われているんだけど、それでも残る集落ってあるんですよね。その可能性のひとつが、揖斐川町の旧春日村。伊吹山のふもとにある集落ですけど、いま移住者が増えているんです。全国的に有名なのは、郡上市の石徹白(いとしろ)ですね。小水力発電事業を立ち上げて、すごく移住者が増えています。石徹白の人たちも、もともと小学校を残していけるような地域づくりをしたいというのが地元の意向だったので、今それに向かいつつあるんじゃないかと思っています。あとは、恵那市の串原には、地元の空き家の買い手を見つけた上で、みんなで古民家のリノベーションの講習会をしながら空き家を改修して、そこに移住者に住んでもらうという事業を、もう20年以上やっている人がいるんですが、ついに空き家が足りなくなってしまった。一緒に森林整備もやっているそうで、そこは空き家の解消と森林整備が同時に達成できていて、人口も増加に転じているんですね。これらは岐阜県の中で注目すべき実績だと思っています。地域の中に、それぞれ優れたリーダーさんがいるところがポイントだなって思っています。人の目利きができたり、適切な住居を紹介してあげたり、そういう地域づくりの核となる人がいるっていうのは強いですよね。そういう人がアカデミーの卒業生からも出始めるといいですね。

 

インタビュアー 下山みなみ(森と木のクリエーター科 木工専攻)