アカデミー教員インタビュー

伝えたいのは、未来の木工。

久津輪 雅(木工専攻)

 

教員インタビュー久津輪先生

久津輪先生は、元NHKのディレクターという、アカデミーの中でも異色の経歴を持つ木工専攻の教員です。学生に木工を教えながら、本を書いたり、ワークショップやイベントを企画したり、木工を伝えることにも力を入れています。テレビ番組の制作から、どのように木工と出会い、先生の道を歩んできたのでしょうか。

 

 

 

原点は小学校時代

 

――どんな子ども時代でしたか?

久津輪:僕は東京で生まれて、父の仕事の関係で、小学校2年生の途中で福岡に引っ越しました。考えてみると、本を出したり、海外で木工のワークショップをしたり、「さじフェス」や「鍛冶フェス」をなどのイベントを企画・運営したり、僕が今やっている木工の仕事の根っこは、小学校時代からつながっているんですよね。ひとつは、海外の文化に興味があったこと。今でもよく覚えていますが、僕の家族はキリスト教徒ではないんだけど、日曜日の朝の礼拝に連れて行ってもらったことがあるんです。まだ小学校に入る前だったんだけど、多分それが初めて外国文化に接したときでした。昔から英語が好きだったし得意だったので、高校では英会話部に入りました。それは好きな女の子が英会話部にいたっていう、不純な動機もあるんですけど。そこから、大学は国際関係学部に進学しました。それがひとつ目。

 

教員インタビュー久津輪先生2

 

久津輪:ふたつ目は、父親が木工の仕事をしていたので、子どもの頃から父がモノを作るのを横で見ながら育ったこと。父は、大分県にある産業工芸試験所で、伝統産業とか伝統工芸の技術試験をしたり、デザインの指導をしたり、地域材を使って商品開発をしたりしていました。僕は、木工こそしなかったけれど、いろんなものを作るのがすごく好きだったんです。プラモデルも、絵を描くのも、デザインをするのも好きだったし、高校のときは美術部にも入っていました。でも、当時は工芸系に進もうとはまったく思っていなかったですね。三つ目は、社会的なことに関心があって、人に伝えるのが割と好きだったこと。字を書いたり、文章を書いたりするのが得意だったから、小学校のときから広報係をずっとやっていました。学級だよりの子どもが書く欄を書いたり、壁新聞を年に1回作るときにデザインをして、文字も書いたり。そういうのを自分から進んでやっていました。中学校でも生徒会で広報委員をやっていました。結局、小学校の頃からそういうことをやっていたのが、まわりまわって今に繋がっているなって思います。

 

教員インタビュー久津輪先生3

アカデミーでの授業の様子

 

 

――英語が好きで、海外にも興味があったから、大学は国際関係学部を選んだんですか?

久津輪:そうですね。最初は単純に英語が得意だから外国語学部がいいかなって思っていたんだけど、高校の先生に「君、英語“を”やりたいの?それとも、英語“で”やりたいの?」って聞かれたんです。それで、別に英語をやりたいわけじゃないなと思って、国際関係学部に行こうと決めました。当時、国公立で探すと東京大学と筑波大学と埼玉大学にしかなかったのは覚えています。東大は無理だろうと思ったけど、筑波は推薦があったんですよ。田舎の高校だったから、あらゆる先生が内申書を書き込んでくれて、それで受かりました。

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授業で学生たちがデザイン・製作した椅子

 

――どんな大学生活でしたか?

久津輪:いやーそれがね、大学時代が人生の中でいちばんつらい歴史ですね。遠かったので、入試のときにはじめて筑波大学に行ったんです。入学して思ったのは、筑波って本当に人工的な街並みなんですよね。国が研究学園都市として田んぼを開拓して作った街だから、当時、そこいたのは研究者と教員と学生だけ。交通の便もめちゃくちゃ悪かったし、隔絶されたような世界でした。福岡の田舎から見ると、筑波も東京も同じように見えたんですけど、リサーチ不足だったな。あと、高校のときは成績が学校の中でトップか2番目くらいだったんです。でも筑波に入ってみると、自分より頭のいい学生ばかり。さらに国際関係学部は、1年生の1学期から全部英語で教えるっていう学部だったんです。アメリカの大学が使っている分厚い英語の教科書を買わされて、経済学も政治学も全部英語。それでついて行けなくなっちゃったんです。英語は得意だったけど、同級生は帰国子女も多くて、全然歯が立たない。自分が何をやりたいのかわかってなかったから、興味が持てないし、授業にだんだん行かなくなりました。

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久津輪:転機は、3年生のときに国がやっている「東南アジア青年の船」事業に参加したこと。2カ月間、船で東南アジアの国々をクルーズする事業で、東南アジア各国からも若い子たちが乗ってきて一緒に旅をしました。そこから東南アジアに関心を持って、4年生のときに1年間学校を休んで、国際的な問題を支援している民間のNGOで難民キャンプのボランティアをしました。筑波から離れて海外に行って、社会的なことに携われたのはすごくよかったですね。

――難民キャンプでは、どんなことをしていたんですか?

久津輪:タイでボランティアをしていたんですけど、当時、隣国のカンボジアは戦争中で、ラオス、ベトナムは共産主義政権だったんです。そこからタイに逃れてきた人たちが、もう何年も難民キャンプに居続けるような状況でした。日本は今でも難民に対してきびしい国だけど、当時は例外的にベトナム、ラオス、カンボジアの人たちを受け入れていました。それで日本の受け入れが決まった人たちに、日本語を教えたり、渡航準備をしたり、そういうのを民間のNGOが担っていたんです。僕はそこで日本語を教えるお手伝いをしていました。

 

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久津輪:タイには丸一年いて、その後大学に戻って、就職活動をはじめました。そのNGOに正規の職員として入ろうかなとも考えたんですが、けれど、僕が見てきたような社会の現実は知られてなさすぎるから、それを伝える仕事をしたほうがいいんじゃないかって思ったんです。それでマスコミを受けることにしました。今考えれば、小学校の頃の壁新聞を作っていたときとつながっていますね。NHKが第一志望で受かったので、そこからテレビの世界に入りました。

 

 

31歳、木工職人への道を歩き出す。

 

――NHKではどんなお仕事をしていたんですか?

久津輪:ディレクターをやっていました。長崎に4年間、東京に4年間いたんですが、長崎時代は、もう一言、雲仙・普賢岳災害です。入社したのが1991年で、3週間くらい東京で研修を受けて、4月の末に長崎に引っ越しました。翌月の5月に雲仙普賢岳の火山活動が活発になって、6月に火山灰や岩石、マグマが混ざり合って一気に流れてくる火砕流が起きたんです。そこから住民の避難生活がはじまりました。僕は当時社会人1年生で何にもできないから、中継のお手伝いだとか、取材のお手伝いみたいなことをしていました。溶岩ドームができて、ときどき崩れては火砕流が押し寄せてくる。雨が降ったら灰が混じった土石流がどーっと流れてくる。そんな状況だったので、結果的に5年くらい避難生活が続いたんです。すごく長かった。当時、長期間帰れないタイプの災害はすごくめずらしくて、結局、僕が長崎にいた4年間は、ずっと災害が続いていました。その後、東京に異動になって、最初は東京ローカルの30分の報道番組を担当したんです。そのあと「クローズアップ現代」に移りました。僕は、短いニュース番組にはまったく関わっていなくて、ひとつの話題を深めていくような報道番組を作っていました。

 

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NHKディレクター時代の久津輪先生(中央)

 

 

――NHKを辞めるきかっけはなんだったんですか?

久津輪:東京に移ってからは、新しいテーマを次々取材しなければいけなくて、ひとつのテーマをずっと追いかけることができなくなったんです。長崎にいた頃は、ずっと普賢岳災害に集中していたし、報道することによって困っている人たちから「報道してくれてありがとう!」という直接的な反応が返ってきたんです。でも、東京に行ってからそれがわからなくなった。次々にいろんなものを取材したけど、放送したから問題が解決するわけではなく、その後も問題は続いているわけで、そういうところにも矛盾を感じはじめました。常に新しいことに取り組むのが好きなディレクターもたくさんいるんです。でも僕はなじめなくなった。あと、日本の報道の組織は、現場で取材ができるのは35歳くらいまでで、そこから取材してきたものをチェックするデスクになって、人や予算を獲得するプロデューサーになっていく。ベテランでもどんどん現場に行ければいいけど、そうはなっていないから、自分はそれをずっとやりたいのかって考えはじめたんです。長崎時代に普賢岳災害をやっていたときはすごいやりがいがあって、地方でずっと根を張っていきたいって思っていたんだけど、当時のNHKでは頑張れば頑張るほど、ずっと東京。僕が辞めてから、それはだいぶ変わってきたんですけどね。それで、これからのことを考え始めたのが28、9歳くらいです。そこから夏休みに木工の学校とかを見学しに行きはじめて、31歳でNHKを辞めました。

 

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久津輪先生が企画・運営に携わった、生の木を削ってスプーンづくりを楽しむ日本で初めての祭典「さじフェス」

 

――なんで木工だったんですか?

久津輪:そこは脈絡がないんですよ。父親がやっていたからなんとなく俺にもできるんじゃないのっていう根拠のない自信があって、最初は作家的なものをイメージしていたんでしょうね。それで、そっちに転職しようと思って、職業訓練校のようなところを見て歩いたんです。そのときに岐阜県高山市にある「森林たくみ塾」に出会いました。

――たくみ塾時代はどうでしたか?

久津輪:すごく楽しかったです。社会人をやめて、もう1回学生にもどって、責任もまったくなしで、新しいことをひたすら学べるってめちゃくちゃ楽しいじゃないですか。最初の3カ月くらいは、こんなに学んでもまだ1週間しかたってないのかってすごく長く感じました。当時の理事長さんに「木工をはじめるなら30歳くらいまでだよ」って言われたことも、NHKを辞めるきっかけになっているんです。まだ体力もあったし、授業のない日曜日も学校に行っていました。ひたすら実習に打ち込んで、すごく楽しかったです。

 

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2019年にアメリカで日本の工芸「我谷盆」の講座を開催。日本人木工家の通訳を務めた。

 

――卒業後はどんなお仕事を経て、アカデミーにたどりついたんですか?

久津輪:たくみ塾を卒業した後、岡山にある工房で1カ月くらい居候でインターンをさせてもらうことになりました。そのときに「実は、昔うちに来ていたイギリス人の若い子が、帰国して工房を開いて、日本人のスタッフを探しているんだけど、あなた行く?」って言われたんです。これは行くしかないと思って、縁があってイギリスの工房で働くことになりました。結果的にイギリスには5年間いたんですけど、イギリスにいるときに、当時のアカデミーの教員から「木工専攻の教員を増やすことになったので、教員採用試験を受けませんか?」と連絡が来たんです。アカデミーとたくみ塾は、開学したときから連携をしていて、新しく教員を探すときに、たくみ塾の教員が、卒業生の中で教員に向いている人リストを作っていたそうなんです。そのリストの一番上に僕がいたみたい。それで採用試験を受けて、帰国することになりました。

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2019年にイギリスで「我谷盆」の講座を開催し、講師を務めた。

 

田舎からはじまる、未来の学校

 

――アカデミーの印象はどうでしたか?

久津輪:アカデミーは未来の学校だなって思いました。今の日本の高等教育はすごくいびつで、将来何になりたいのかわからないまま自動的に大学に行く人も多いし、同じ学年には同世代しかいない。でもアカデミーは、学びたい人が学びたいタイミングで来るので、10代から60代まで一緒に席をならべて学ぶ機会がある。日本の大学ではあまり見られない姿だと思うんですよ。時代を先駆ける新しいことは、田舎の小さなところからぽつっと起こるんだなってアカデミーに来て思いました。あと、意欲的な学生とは卒業後もずっとつながりがあるんですよ。卒業した人が教える側になるとか、あるいは一緒にプロジェクトや研究活動をするとか。そうやってどんどん仲間が増えていくのは、本当にすばらしいなと思います。

 

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久津輪先生が執筆している書籍。DIY雑誌「ドゥーパ!」で連載もしている。

 

――久津輪先生がNHKを辞めたときは、まだアカデミーの開学前だったんですけど、もしアカデミーがあったら、入学していましたか?

久津輪:どうだろう、わからないですね。木工がやりたくてアカデミーの入学を考えている人にも、必ずしもここがベストではないので、よく比較するようにって強く言っています。少なくとも岐阜県内に4校、木工が学べる学校があるんです。それぞれに特徴があるから、そこを全部比較した方がいい。技術や実習の絶対量では森林たくみ塾などの職人養成系の学校には負けるけど、これから必要とされる森や木に関して広く理解した上でものを作ることができるのは、アカデミーがいちばんかなって思います。

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――最後に、アカデミーに入学したい人や、森に関わる仕事を始めたい人に向けて、メッセージをお願いします!

久津輪:森とか木に関することは、実はこれからの最先端なんじゃないかなって思っているんです。僕がアカデミーに勤めはじめた当時は、今のような地球規模の問題はまだそれほど言われていなかったんですけど、今はもっと時代が動いていますね。石油資源ではなく少しでも再生可能な資源を使うとか、地域の経済の循環とか、いろんな課題がある中で、これからの社会の在り方のすべてに森や木が関連していると思うんです。だからこそ、新しいかたちの未来産業になりえるし、明るい未来がすごくたくさんある。日本には千年、二千年の木を使う伝統があって、それは世界中を見渡してもかなりめずらしいと思うんです。日本で木工を学べるというのは、そういう歴史や蓄積の上に自分を重ねていけるすばらしさもあるし、まったく新しいものを生み出せる可能性もある。本当にやりがいのある、やっていて楽しい、希望のある仕事だなって思うんですよね。アカデミーはその入り口としてふさわしい場所だと思います。

 

インタビュアー 岩屋良明(森と木のクリエーター科 林業専攻)

 

 

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